【第二話|裏山の記憶】

誕生前夜シリーズ

征幸治 第二話|裏山の記憶

名前を変えることにしたのは、ただの気まぐれじゃない。

その奥には、ずっとしまい込んでいた感覚があった。
「おかしいな」と思っても、誰にも言えなかった小さな違和感。
子どもの頃の自分だけが気づいていた“もう一つの世界”。

今ならはっきり言える。
俺が本当に怖かったのは、目に映るものじゃない。
“他の誰も怖がらないのに、俺だけが怖がってる”という事実だった。


裏山の異世界

まだ第二京阪道路がなかった昭和50年代、枚方市の片隅。
俺は保育園児で、毎日をふわふわと漂うように過ごしていた。
その頃からすでに、道路の計画は始まっていて、家の裏手にある小さな山は、所々が削られ、土が剥き出しになっていた。

ある日、何の気なしにその山を登った。
表から見れば確かに“山”だったのに、裏に回った瞬間、俺は息をのんだ。

「……裏、ないやん」

そこには崖のようにえぐられた地肌と、崩れかけた斜面。
そして、ぽっかりと開いた“何かの穴”みたいな空白があった。

「アリ地獄みたいや…」

そう思った瞬間、背筋がゾワッとした。
足元が吸い込まれそうで、全身が冷たくなった。


最初の孤独

でも、まわりの大人たちは平然としていた。
誰もその風景を気にせず、その道を通り、会話をし、笑っていた。

「えっ、これ…誰も怖くないの?」

その感覚が、たぶん俺の“最初の孤独”だった。

言葉にしようとすればバカにされそうで、
それ以上踏み込めば、元の世界に戻れなくなりそうで、
俺は黙って山を降りた。


世界はハリボテかもしれない

あれから何十年も経つけど、あの裏山のイメージは、今でも時々よみがえる。

そしてふと思う。
「あの時、自分だけが異世界を見てしまったのかもしれない」

世界は表面だけでできていない。
“ちゃんとした山”に見えていたものが、角度を変えただけで崩れそうな斜面に変わることがある。

人も、街も、言葉も――
俺がずっと生きてきたこの社会そのものが、
どこか“ハリボテ”に見えてしまう感覚のルーツが、たぶん、あの裏山にある。

今なら言える。
「俺だけが、怖がってよかったんだ」

あの時感じた“異物感”こそが、俺にしか見えない風景を与えてくれた。

あの山の裏側にあったものは、もしかしたら“征幸治”のはじまりだったのかもしれない。


あとがき

後年、その山は完全に削られて、道路になった。
あの斜面の“怖さ”も“空白”も、アスファルトの下に埋もれてしまった。

でも、俺の中ではまだそこにある。
あの時の空気も、光も、足元のざらつきも。

「もう誰にも見えないけど、俺には見える」
それが、俺が書く理由のひとつになっている。

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